コラム

2013年12月7日

その若いお坊さまの”いでたち”は、と見てあれば深編傘を冠り、手甲に脚絆を付け晒の白衣の上に墨染の法衣を一着におよび、そしてその上に茶色の袈裟を付けて行脚して居ります。
偶に汗を拭くとかで編傘を除った様子は今しがたカミソリを当てたばかりの青々とした涼しげな頭の下にははち切れんばかりの意思の強そうな顔がありました。胸の辺りには頭陀袋が掛けられていて、惚れ惚れする程の様子です。

この坊様が朝の三時に起きて水垢離をして、家の仏前で長時間お経を読み終ってご来光がしらじらと周囲も明るく照らし始めると街中に出て各家々の門前に立って、その家の幸運を祈って歩くのです。終日この修行が終わって街の火灯に近くなると我が家に戻って夜のお経を長々と唱えて十一時に夜の水垢離を浴びて床につくのです。
こんなハンで捺いた様な生活が、もう随分永いこと続いて居るわけですから、街のひと達は最初は変った坊様も居たものだ、ぐらいに思って居ましたが其のうち、此の頃は、何と立派な坊様が、と噂をし合うようになり、中にはそのお姿を遠くに認めると手を合わせて礼拝するひとさえ現われました。

日を追って尊敬を集めた坊様が我が家の門前に立ってお経を唱えた時、丁度のその豪の父親が亡くなった日であったり、愛子が命日に当ったりしたお宅では、特にお願いして家に請じ入れてお経を上げて貰う等し云うことにもなって来ました。
或る家では「今日は母様に逝去日(たちび)であるから」とわざわざ前日に市に行って購めた食材でお精進の料理を作り、ご回向の後、若い坊様に召し上っていただいて、「これで孝養が果たせた」とこころから喜んでいるひとが後を絶たなくなりました。

評判はこの街の全部に及んで、尊崇を集める程になりました。ところで隣りの町に信仰熱心なお婆さんの一軒の舎がありました。 何かの用でこの街を訪ねた時お坊様の感心な話を耳にして「どうぞ私もそのお坊様の徳に接し度い」と強く覚えまして、幾日かを経ました。 日を重ねるごとに思いは増して、もう我慢し切れなくなって、再び隣町を訪うて或る街角で朝早くから待って居ると行脚の僧形が高声でお経を唱えながら此方へ歩を進めて来られて、合掌して居るお婆さんの姿を認めるとお坊様は軽く目礼して行き過ぎようとしましたので、「お坊さま、お坊さま」と二度声をかけました。お経を読むのに集中して居たお坊様でしたが二度目の呼びかけははっきりと聞こえて、歩くのを止めてお婆さんの方に顔を向けまして「何かご用でしょうか」と問い掛けました。

2013年11月9日

一昨年の九月から、このブログを書き出して「我が城南ペット霊園が永く続く限り、オーナーの拙の命の続く限り、所懐を書き連ねよう」 と思ったものですから、ならば先ず筆者の自己紹介から始めようとして、気がついてみたら二ヶ年余り、色々のことを思い付く侭につづって参りました。

わたくしの容貌に始まって、その為の失敗談、昔の葬儀のこと、今の葬儀事情等など、読者の皆さんには大まかな所、筆者のひととなりを想像いただけたことと思います。

この先永く書き続けることですから、まだ沢山の事を云いたいのですが、そのことは永く続く他日に譲って、ブログの昇頭に掲げた仏語の説明に移ろうと思います。

実は今迄の記事はこれから書こうとする序文のようなものでした。 今では七十三才は未だ老人の仲間には入れてもらえませんが、二十年ほど前は「人生七十年いにしえ稀」と謂われて立派な年寄りで盛大な「古希」のお祝いをして貰ってたりしたものです。 実際、このお寺の過去帳を見ると七十才を過ぎて亡くなったひとには「永生きしました」の表現のお戒名が付けられて居るのが見受けられます。

いづれにしても、そんな年令になって見て、お坊さんの息子としてこの世に生を享けて自分も僧侶の道を志ざして一途に行きて来たかを顧ると、全く最初に紹介した仏語の十字に尽きると思うのです。

わたくしはこの語に生き、これからもこの仏語をいましめとして生き続け様と決意を新たにしております。

扨て、その仏語「倚枯木寒巌、三冬無暖気」とは、「枯木寒巌に倚する、三冬暖気無し」とお訓みします。

譯すると、「枯れた木が冷え切った岩に寄り掛った状態は、一年中で一番冷え切った極寒を見る如きで、何の温たか味も感じない」と筆者は読んで居ります。

それに付きわたしの理解を譬え話でご紹介いたします。 或るところに若くて、ハンサムで修行熱心な一人のお坊さんが居りました。彼は夜中の三時に起きると浄水で身を清め、日の出る迄の間ご本尊にお経を誦げ、ドンブリ一杯だけのお粥に三きれの沢庵漬け、お味噌汁を腹中にし終ると、墨染めの法衣に身を包んで街中に出て、一軒一軒門付けをして祈願文を唱えて廻りました。

「このお宅に災厄が起きませんように、今日この家に吉運が訪ずれますように」と、日がな一日中廻って日が暮れ掛ると庵室に戻って、復た浄水で身を清めて朝食と同様の粗食を摂り、そして、その後は深夜の十一時迄ご本尊にお経を唱え続ける、と云う生活を過ごし続けておりました。

2013年10月10日

 この原稿を書き始めて三稿目(平成十九年九月)「飾り物がありまして」と題して葬儀屋さんの下受けが、頭髪が長い事が理由で断わられたのを書き、その次の記事で薄汚れた衣服を身にまとい、ガニマタで肩をゆすって歩く私を紹介しました。

  頭を剃って青々として、身綺麗にして居れば、一人まえのお坊さんと極めつけて、心の中はどうでも構わないと云うのでは赦せない、みたいな事を書き連ねました。

  それではお隣りの国の乾山・拾得さんの様にボロ衣を着ては居ても聖人・君子の心ろの持主が私であろうかと云えば決してそうではありません。

  折角のお付き合いですからわたくしの裏もおもてもバラしてしまおうと思います。誰にも話していないことですから、これを読んだから、と云って決して口外しないで下さい。おねがいします。  此の頃のこの界隈二キロ平方メートルには銭湯が一軒もなくなってしまいました。廃業した後にマンションが建ったり、駐車場になったり、仏壇屋さんになったと思ったら、間もなく店を閉め十年近くも其の侭の状態が続いていたり、で指折り算えると十軒程のお風呂屋が廃くなりました。

私は昔からこのお寺に五ヱ門風呂があったり、家庭の小判型の桧の浴槽があったり、今頃は一般家庭用のプラスチック製の物が設置されておりますが、我が家で入浴すると決って風邪を患くものですから、二日に一度は銭湯のお世話になっておりました。

  つい、二年前迄は残された最後のお風呂が営業しておりましたが、経営者が老齢で重労働に耐えられなくなって廃業してしまいました。  銭湯党としては、然りとて自分の家で風邪患きを覚悟で入浴することも出来ず、徒歩で十五分はかかるお風呂屋さんに通い始めました。

  参ヶ月前のことです。充分に温まらないと風呂に入った気がしないわたしは「長湯をすると心臓に過重の負担がかかって倒れる場合がある」とするTVでの医者の忠告を入れて浴槽の中段に正座して出来るだけ心臓をお湯面から外に出すようにしておりました。

 長い時間になると痺れ感を覚えたり、膝が痛くなったりしますのでチョット考えました。我ながら妙案が浮んだのです。  洗い場で身体を洗う時に使う腰掛けを浴槽に持ち込んだら問題は解決だ、と早速実行してシメシメと喜んでおりましたところ、五分も経った頃です、裏の焚き場から若い者がとび出して来て「腰掛けを中に入れないで下さい」と怒鳴って姿を消しました。

 「知らないことで済みません」と直ぐ腰掛けを出して、あやまりましたが、何とも居心地が悪いので、そこそこにして銭湯を出てしまいました。

  沢山のひとが入る浴槽ですから「手拭いは入れないで」など公衆衛生に関する注意書きが掲示されているくらいです。  身体を洗った際の石けん液とか垢などの類が付着した物を持ち込むのは不可なのは充分考えれば判ることで、注意されて當りまえなのですが、始終看視されている様でリラックス出来ない風呂を敬遠してしまって、今は片道二十分はかかる大井町のお風呂に替えました。  何とも因業な私です。

2013年9月15日

 昨日のことでした。十一時からの或るお宅のご主人の百ヶ日忌の法要は一ヶ月も前から予定されておりまして、お部屋の準備もし、茶菓子の用意もし、九月に入ると同時に台風九号の影響もあったりして樹木の枝葉も散乱していたりして境内が汚れておりましたから、汗みどろになって竹ボーキで掃き清めたりして ご入来を待っておりました。
 親せきの方々は顔をお揃えになっていたのですが、定刻になっても肝腎なお施主さんをお勤めになられる奥さんがお見えになられません。“どうした事か”と時計とニラメッコしておりましたら、故人の甥にあたる方が訪ねてまいりました。 そして云うことには「伯母は骨折して入院加療中のため、本日は私が施主の代役をいたします」と云って来られました。

 十分程遅れてご一同を本堂へご案内して副住職と一緒に故人の冥福を祈っての荘厳な法要が営なまれ、法要後に庫裡の三階に併設の堂内墓地のご当家の霊壇に掌を合わされて、立派に百箇日忌を終えられて、降り始めた雨の中を辞去なさいました。
 実は施主の代役を勤められた方の父上は昨年の十一月に逝去されて、上野の寛永寺の葬斎場で盛大にご葬儀が執り行なわれ、次いで初七日忌や四十九日忌に墓地埋納を併修され、更に百ヶ日忌も勤め終えてようやくホッとひと息ついた所で、かねてお医者さんから長年、心臓病があり、「今度発作を起こしたら危険です」と云われていた父上のお兄さんが、近所のコンビニに買い物に行って支払いをしようとした時、突然「ウッ」と声を発して、其のまま息絶えられたのでした。時に本年の六月でした。想い出すと弟さんの通夜の夜もあくる日の葬儀の折も甥の喪主よりも頑張って儀式を執り仕切っておられ、四十九日忌お骨納めの時も奥さん共々に元気にお詣りされておりましたのに、僅か半年後には跡をおうようにして他界され、その奥さんも骨折して百箇日のその日は病院で痛む足を抱えて無念の思いで過ごしておられる、なんてお気の毒と云う以外ありません。  然し、夫の大切な法会を任せられる甥ッ子を持ったことを病床で喜んでおられることは想像に難くありません。

 或る時、この伯父夫妻と甥とその母が、この寺の応接間で話し合っている中に住職もおりました。  その折に「わたくしが万が一、お二人が亡くなった際、すべてを任せていただきます」と子のない伯父・伯母に約束しておりました。  甥は社名を聞けば誰にもすぐ分る製靴業の社長ですから、こんな事は苦もなく出来るに違いありませんが、今の時代いくらお金があってもそれは自分と自分の家族のためだけに使い、自分の親にさえ不孝をはたらいて平然としているのが普通です。
ですからわたくしは大いに感心しているのです。顧ると住職が壮年期のホンノ参拾年も前にはお互いに心を尽し合った世間がそこにも此処にもあったものです。

2013年8月21日

  前稿で「寺の朝は早い」との書き出しで五時には毎朝眼が覚めるとご紹介しましたが、これにはチョット説明を加えねばなりません。  正しくは「今年の二月一日以来」のただし書きが必要だったのです。

 それでは それまではどうだったかと申せば、永い間、七時には夏冬を問わず蒲団から抜け出して 洗顔などして本堂の経席に座るのが七時二十分頃です。これから法華経二十八章の中から 特に抜きん出て必要とされている十一章を四分割して毎朝二十分程の時間をかけて朝勤を続けておりました。

 ところが昨年六十才で出家得度を申し出て度牒式を挙げた弟子が「二月一日から朝勤 に出座いたします」と決意も固く申し入れてきました。その時師匠であるわたくしは申しました。「朝は七時二十分から二十分間お経を誦げますから是非どうぞおいで下さい」と。

 二月一日のその日の朝を迎えて、彼は頭も五厘刈りにして真新しい道服を洋服の上に羽織って玄関に入ってきました。一緒に本堂に上って、最初に拝礼の所作などを教えて、ハテいよいよ読経の段になって彼がどの程度にお経を習熟しているのか見当が付きませんので、此処は新発意の調子に合わせるの外はなしと考えて読経の速さの楽器を任せることにいたしました。

所ろがどうでしょう。まるで読めないのです。新発意が読めないのは当りまえで、そこはわたくしの認識不足だったわけです。  何と永年ひとりで二十分も掛ければおつりが来た朝経がタップリ一時間近くも掛るのです。彼は初日にそんなに掛ったのを「何とかしなければ」と考えたのでしょう。

 翌る朝から十分ぐらいづつ出勤の時間が早まるのです。以前にも記述した通り美容院のオーナーですから、この寺から自転車で三十分程かけて自宅へ帰ってから開店までのあいだに店の掃除やお道具の手入れや色々あるわけです。  節分も終ると一日一日夜の帳の明けるのが早くなるのも手伝って余り日数も要さず六時半には出勤し、七時半には玄関を後にするようになりました。  彼を迎えるわたくしは、と見ればその前に通りの掃除があり、更にボケ防止のための日記の記入をしなければなりませんから、五時十分から二十分には起き上らねば彼の予定を妨害することになり、こんな日が続けばせっかくの修行の決意を鈍らせることになるわけですから、師匠として頑張らねばなりません。  五時近くに早起きする習慣に馴れていないわたくしが六時半を過ぎても更に睡っていた事があって、目が覚めて時計を見たら六時四十分になっていて大慌てで玄関を開けたら「十分ほど待ちました」と二月の寒い朝、冷えた手を揉み揉み昇堂したこともありましたが、今では何と夜の十一時や十二時に蒲団にもぐろうと「体内時計」と云う奴が不思議な位、チャンと五時には目覚めさせてくれるのです。

2013年7月25日

 この寺の朝は早い。いくら眠くても仮に昨夕十二時に蒲団に入ったとしても習慣と云うのはおそろしいもので、朝の五時という云うと判で捺いたように目を覚ます。 子守唄がわりに枕もとに置いてあるラジオがNHK五時のニュースをアナウンスすると十五分迄聞いて、昨日のスポーツの結果も頭に入れてベッドを離れる。

先ず血圧を測定して、ノートに書きこみ二種類のサプリメントを水で飲み落して五時半には玄関を出て外気に触れると、多少睡気が残っていたとしてもショボついた眼もシャッキリ、少し重かった身体も昨日の切れを取り戻している。 そこでまずするのは塵取りとホウキを持って、ブロンズ製の山門の外の区道の清掃にかかる。界隈は巨刹もあり、隣りは神社なので樹木がやたら多いから晩秋の頃は落ち葉が多く、或る朝など七〇キロのゴミ袋に六ヶもギュウギュウ詰めにするから掃き集めて袋詰めが終る迄二時間を要することもあるが、これは年間を通しても数日に過ぎない。 通常は道幅六メートル、長さ百メートルの一般道を二十分かけて掃き清めて本堂に登る。

「ボケふさぎに卓効あり」とTVコメンテーターが以前云っていたのがきっかけで二十年も前から付けている日記も最初のうちは「朝なん時に起きて、顔を洗って、お経を誦げて、朝食は何時に食べて・・・・・・・・夜は何時に寝た」と毎日よくもこう同じことを繰り返し書けるものだ、と自分でも呆れるぐらいだったが、この頃は政治向きのこととか、街を歩いての感想とか多岐に亘って書き連ねる様になって、 今朝も道路の掃除が終って日記に取りかかり、約二時間半の散歩の途中、スーパー銭湯(と云ってもサウナに入らなければ四百三拾円)に入浴した感想を書き上げたのが丁度六時、それからひと待ちしての間、朝刊を拾い読みして六時三十五分に齢六十才の新発意が「おはようございます」と今朝も顔を見せてくれました。灯明に火を点じ、線香を立てて経机に向って漢字が羅列された経文を音読みします(漢字をそのまま読み下します) 「新発意のそのひとは立派な美容室のオーナーですが、この春出家を志ざして剃髪式を行ない、来春に開催される本山での三十五日間の修行に入る」とは以前ご報告しましたのでその記事をお読みいただいたと存じますがその準備をして二月一日以来大体定時にわたしと二人だけで約一時間の勤行(ごんぎょう:お経を読むこと)を致します。 住職のわたしは六十年近く繰り返し、読み続けているお経ですから殆んど暗誦しております。

今朝はこんなことがありました。お経を唱え始めて間もなく夢を見ているのです。このわたしが死んで祭壇にわたしの骸が飾られて、それを葬儀社が仕切っているのをみて「止めてくれ、いやだよ」と盛んに叫んでいるのですが、言葉が届かず、苛立っている。時間にして数分間でしょうが、その間お経は途切れることなく唱え続けていたらしいです。 夢にも見る程、人生の最後を金もうけのために利用する業者を嫌っているのは住職だけではない、と思います。

2013年7月4日

  葬儀社に付いては嫌な思いをしたことがあります。
そうです。あれは十年程以前のことでした。同区内に住むお檀家に急に不幸が訪ずれました。 それは、そのお宅のご主人は機械の製作会社の工場現場で仕事をなさって居たのですが ご本人のチョットした不注意で腕が機械に巻き込まれて命を落とされたのです。 五十六才の、まさに男の働き盛りのご不幸でした。

謂わば仕事中の事故死でしたから会社葬と云うことになり、会社の担当者から 「地もとの有名な葬儀社を向けます」と知らせがありました。 間もなく挨拶に来た葬儀業者から「斎場はお寺を使用させて欲しい」とのことでしたから、 お檀家のことでもありお引き受けすることにしました。ひとの出入りの激しい葬儀の一切が 終ると境内も大広間や庫裏も掃除が大変ですが、そんなことも終って二、三日経ってから 葬儀業者がお寺に来て「この度びの葬儀式で喪家からお経料をわたくし共が受領しましたが、 当社の決まりで其の内の二割を申し受けることになっておりますから諒承いただきたい」と 口を歪めて莫迦にした様な微笑みを浮かべて云うのです。このお寺の檀家の葬儀のお経料の ピンハネをしよう、と云うのですから呆れ果てて言葉もありません。 黙って居りましたら二割を差し引いたお布施を置いて逃げる様に玄関を出て行きました。 その前に同じ葬儀社でこんなこともありました。ご近所に亡くなられた方が居られ、そちらの ご子息がこの寺の副住職と中学で同級生だったので、葬儀社から「お寺さんはどちらですか」と 訊ねられて「菩提寺ではありませんが真了寺さんにおねがいしたい」と希望を告げた所ろ、 途端に「ああ、あちらは位いが高いお寺さんですからネ」と恰かも、真了寺に頼んだら 途方もなくお布施を要求される、とでも云いたげに云われたので、家族は「それでは御社に 任せます」と、なったそうで、その友人から副住職が聞いて来て住職のわたしの耳に入れたの でした。

よく聞く話しとしては、各葬儀社はお寺を持たない僧侶と契約して、葬儀が出来ると喪家の宗旨に 合わせてお坊さんの仕出しをしてお経料や戒名料の六割も葬儀社に上納させるのが業界の常識 なんだそうです。ですから葬儀社は自社の利益のためにはお寺の名誉を損なうことを捏造して括として恥じない のです。

ですから大切なひとを送ったお宅で、四十九日忌も終って気持の上で顧る余裕を取り戻した時 「葬儀社の金儲けに付合わされた」と後悔することになるのです。 まあ、そんなことが重なってこのお寺で斎場を使う際には、その業者は「出入り禁止」に しております。

2013年6月12日

  昨年の暮れにお檀家の奥さんが七十七才で亡くなられました。 ご本人が普段懇意にしていた葬儀屋さんがあったので、そこの斎場で通夜・告別式を執り行ったときのことです。

 通夜の回向が終って出されたお斎(とき)に箸を付けておりましたら、そこの社長夫人が部屋に訪ねてくれまして、雑談を交わしておりましたら、その中で深刻なおはなしとして「此の頃、葬儀をしないで、直接火葬場に遺骸を運ぶ葬家が多くて、会社の経営も大変です。もう、どうしようか、と思っております。」と述懐されました。 話を聞いたその時は「ホオ、そんな事もあるのか」と他人ごとに感じておりましたが、年がかわって此の春三月、古くから和装屋さんを営んでいたお宅のお婆チャンが八十七才で逝去されて、そこのご長男から「明日の午後二時から桐ヶ谷火葬場の炉の前でお経を読んでいただいて、あとは四十九日忌にお寺で法要をして埋骨することに致しましたので、明日は宜しくお願いします」と電話が入りました。

 この頃、これを直接火葬場に運ぶので「直葬」と云うのだそうですが、「これが、葬儀社の社長夫人が嘆いていたことが、愈々我が寺にも出来した」と感じました。

 翌る日の指定された時間に斎場の待合室に行くと、お坊さんが外に二人見えていて、縁者らしい人が二十名程椅子に腰を掛けて待っていました。待時間に葬儀社の担当者が打ち合わせで接して来ましたので、必要な会話の後で質問しました。

「以前とくらべて、今の時間すっかり空いていますが、今日は特別ですか」と訊いたら、「最近は毎日こんな具合でこの時間は直葬の葬儀が毎日あります」との返事でした。 「それでは」の声に促がされて、炉前に行くと三人のお棺が炉の扉の前に列べて置かれ、一斉にお経が始まりました。

 わたくしはナムミュウ・ホウレンゲキョウのお経を、隣には真言宗のお経を、その向こうはナムアミダブツのお経を誦(あ)げておりまして、読むお経はまちまちでしたが、たまたま読み終わったら、お隣りも又たそのお隣もほぼ一緒に読み終わりました。  時計を見たら、読経の時間は十分間でした。炉前でのお経が終りましたので、わたくしは其のままご挨拶をして辞去しましたが、約九十年の人生で幾人もの子供を育て上げて、ご苦労も並大抵のことではなかった筈ですが、こんなことで良いのか、と忸怩(じくじ)たるおもいでした。

 こんな葬儀が連日午後二時に桐ヶ谷斎場の火葬炉の前で行なわれているのです。

 現代の世相の一端です。

2013年5月24日

 明日、五月二十三日は本栄寺前住職の六・七日忌です。 先週、水曜日 五・七日忌の法要に伺った時、 『来週は夕方五時半にお待ちしておりますから』と、お約束しましたから、今その心の準備をしております。 初七日にはじまって、都合六回他所のお寺さまの然も前のごぜん様のご回向に参上するわけで、これが当山のお檀家の七日目、七日目のお経であれば、回数を重ねた法事ですから手なれたものですので、そんな苦にすることはないのですが、他所のお寺の前住職ともなると現在の住職をはじめとして寺族のみんなが一緒にお経を誦むことになります。 特にお経の最初の導師ひとりで唱える勧請文と最後に読み上げる回向文とは一般の文章とは全然違うのです。

従って、わたしは七十三才になるまで壇家の回向の回数の百分の一も経験しておりません。 そんな時、大概の導師は印刷された文章を眼でなぞって読むのですが、この年令をしてそんなぐらいを空で唱えられないなんて恥しい、なんて変な自尊心が頭をもたげるもので、ハテ?誦んじて間違わずに勤めれようか、と思うと毎七日の度びに年甲斐もなく緊張します。

それも今度で終りで、この次は大勢のご僧侶やお檀家を集めて最後の七日、つまり四十九日の大法要で大団円となります。 どうかつつがなく終えられますようにと願っております。 思えば、四月十三日の枕経に続く仮通夜とその夜の葬儀・執行の準備、十五日のお通夜、十六日の葬儀。

法要の専門家と云ってもお壇家のご不幸の折、 すっかり葬儀社によって準備された斎場に身ひとつで行って、唯だお経を唱えて、 ご馳走をいただいて『それでは』と挨拶して寺へ帰る気軽な葬儀と異って、何から何まで手作りの大法要を執り仕切る事は大変でしたが、普段緊密にお付き合いしている寺院の住職達が智恵と経験を出し合って、そこへ葬儀社が指示に随って祭壇をつくり、テントを設営し寺と各々に汗をかいて、 結果としてどうやらご遺族に満足していただけた葬儀が執行出来。七日ごとのご法要もわたくし一人でお伺いするのは明日が最後で、残すは再来週の水曜日のみとなりました。

この、ブログの次号では開放感に浸った記事になる事だと思います。

この事からひるがえって思いますと、ほんの二十年程まえ迄の一般の葬儀もこんな手作りの葬儀が主流でした。 中には大会社の社葬などになると葬儀社任せで『青山葬儀所』で、もありましたが普通は自宅で葬儀が行なわれ、地元の町会長が葬儀委員長で受付や諸係は町会長が 通夜やあくる日の料理はとなり近所の奥さん方が包丁を持ちよって家庭料理で弔い客をもてなしたものでした。

2013年5月9日

 ここのところ、我が真了寺は忙しいです。特に土曜、日曜日ともなると四十九日忌法要とか年回忌法要とかの予定がほぼ必ず入っていて、寺族四名挙げて汗をかきます。

 今日(五月六日)もその例に洩れません。朝の十時半亡母七回忌の法事があって十五名で来山されお経が終って、墓参のあと出入りの仕出し屋から高級料理をとって食事会が催され、二時半に辞去されました。

  正午からお母さまの壱周忌の法要があり、此方はお墓に詣られてそのまま帰られました。

  その外、四月二日に亡くなられたお宅の五・七日忌(通称三十五日忌)があって、JR蒲田駅隣りの多摩川線「矢口の渡し」下車、徒歩五分程の喪家に約束に 従って午後二時に伺いました。亡夫の奥さんとその奥さんのお姉さん、ご長男家族四名が待っていて、お坊さんのわたしも含めて七名で各自お経の本を手にして 早速法要が始まりました。おとなの五名は勿論仮名付きのお経本ですし、調子もゆっくりですから充分に読み上げられます。しかし、幼稚園児の幼児二人にとっ ては到底読めるものではありません。然し、大人が声をそろえて読んでいるのに合わせて、お経本を小さな両手に持ってワァワァ声をあげているのです。この功 徳はきっと誰のお経よりお爺ちゃんのもとに届いたことでしょう。

  このほほえましい法要の最後にほとけ様の前に進んでお焼香 をするのですが、チャンと金襴の座布団に坐って香を供え、掌を合わせて退坐するのです。都合三十分程のご回向が終って茶の接待を受けて、歓談の後、お宅を あとにして雨の中を自坊に帰り着いたのが三時半でした。

  このお宅のお通夜の日が火葬場の都合で初七日忌の当日だったりした 為に今回を含めて七日法要に四回伺いました。そのかわり三十五日忌の四月まえ最初の月命日が五月二日でしたから、この日は上天気でしたので京浜蒲田駅から 歩きに歩いて、四十分も歩き通して気持ち良い汗をかいて、気持ち良い命日回向を勤めさせていただきました。

  来週がお宅へ訪 ねてのご供養は最後で、その翌る週はお寺にお骨が運ばれて七・七日(四十九日)忌法要が営まれてお墓に埋納されます。 この頃、こんなに丁寧になさるお宅 は極めて稀な例ですが、先日の近所のお寺さんの本栄寺様も欠かさず毎週水曜日の夕方わたくしがお訪ねして寺族七名でご法要を勤めております。

  流石、お寺さまは時流に乗って手を抜くことは致しません。ところでこのお寺の葬儀のその後ですが、前回の文章で申し上げました通り、ご住職から全権を委任 されたわたくしはその日行われた仮通夜の後で普段密接にお付き合いを重ねているご住職様達に集まってもらって会合を持ちました。わたくしから此の度び全体 の会行事(えぎょうじ)、つまり総合執行者が指名され、この住職のもとで諸役が決まり、葬儀社も全面的に指示に随って萬般の準備に入ったのです。

2013年4月12日

翌る六日は八時半に自坊を発って、十一時開式の葬儀に備えました。
前にも書きましたが、斎場は住居から遠く、しかもウィークデーの月曜日であるに拘わらず、会葬者の数は相当のものでした。
故人の日頃のお付き合いと愛娘お二人の真面目な勤務態度と親密な友達関係によるものだ、と感心させられました。
普通の場合で云うと、故人本人がお勤めを定年退職して十数年も経つと、お通夜はそこそこに焼香客は見えても、告別式は親族のみ、その親類も核家族化が進 み,未亡人と遺児数名で、それが広い貸斎場でそこだけがポツンと目立っていやでも悲しい場所が、更に寂しさが増すことも珍しくありません。

 
 筆者は今朝の五時半 電話の呼び出し音で起こされました。云わく「只今、五時二十五分、父が亡くなりました。葬儀の一切をお任せ致しますので宜しくお願いします。」でありました。

病院からの通報だったので、遺骸が自坊に着くには余程の時間が掛るものと見込んで弟子の一人と七時前から朝のお詣りを本堂で済ませ、七時四〇分にその足で距離にして参、四百メートル離れたご自坊の本栄寺さまに伺いました。

亡 くなった方は、このお寺のご先代さまで一歩退って院首(いんじゅ)になられ、、いわば隠居の身で四年前から入退院を繰り返しておられた七十八才の老僧で す。最後に食べた物を誤飲して肺臓に入り、吸引して除去したのですが、これを除ききれずに肺炎を発しての急逝だそうです。筆者が偶々その正午与人(平たく 云えば会社の専務さんと云ったところでしょうか)なものですから、重責を負う羽目になったわけです。

わたしの予測の通りお寺に着いた時に は未だ「遺体を乗せた寝台車は本郷を走っておりますから到着しましたらお電話しますから、一旦お引きとりを」とすすめられたのですが「若奥さん、朝の今の 時間は道も空いていますから間もなく着くと思いますョ」と答えて、そのまま待つことにして二十分程経って寝台車が到着しました。未だ体温も温かい院首さま を奥の室にお寝かせして、近隣の二名のご住職やご遺族と共に、まず枕経の法要を勤め終わると、ご住職から筆者に導師を勤める様に懇請されました。つまり、 このご葬儀の全ての取りまとめと大事な儀式の長を両方共に委ねられるという重責です。

立場上、その任にあり、この辺の住職として年令に不足はないのですから、断る理由もなくお引き受けすることと致しました。その際の条件として、普段平常行き来しているご寺院のご住職たちと一緒に相談しあって、勤めさせていただくことを諒承して貰いました。

今晩が仮通夜で明後日が通夜、翌る日が葬儀の日程に随って四百軒の檀家、勤務時(大学に奉職されていました)の友人や知己・百五十軒からの寺院等への通知状の発送などの種々の準備も粗相なくとり運べるものと信じております。

つい二十年前迄の一般のお葬式も、この通り隣り近所のひと達が集まって、心のこもった準備をして故人を冥界へ送ったものでした。不細工な面も少しはあったかも知れませんが、その分喪家も満足し、その家を暖かく、見瞠め続けてきた人たちも安らぎを得られたものでした。

2013年3月30日

 お通夜に次ぐ翌々日の葬儀・火葬場送りの後の骨上げ。更に斎場に戻ってからの換骨並びに初七日忌法要と続いて、読者のみな様には「随分ご丁寧な」と思われるかも知れません。
今から六十年ほど昔のこの老人が小僧さんの頃はこんなものではありませんでした。

  先ず「死去しました」と喪家から二人の使者がお寺へ知らせに来る、それが夜中の十二時や一時であっても直ぐさま、「枕経」に偏て死者の枕もとで臨終のお経 を唱えます。すると背後では縁者が集まって来て女達は白の晒地(サラシジ)で死出の装束を縫いはいます。手甲・脚絆・白衣・頭陀袋を涙でかすんだ目で心を 込めて仕上げて行きます。

 枕経を終った小僧さんは(実はこのお経に行くのは小僧さんの役目でした)、一旦お寺へ引き上げますが死に装束は明日の納采に間に合わせなければなりませんから、縁者のご婦人方は大変です。

  翌日小僧さんは師匠に随身して、また喪家に向かいます。師匠は慣れた手付きで毛筆で死に装束の一つ一つに定められた経文を書き込みます。書き上るのを待つ 間に死者の身を清めるのは同性縁者の仕事でした。お坊さんに依って経文の書かれた衣装を着せれた遺骸はお棺に納められます。その間小僧さんは何をしている か、と云うと一辺二センチ程で長さ一メートルの棒に半紙を何枚か繋いだものをタテに半分に折り、その半面を二センチ程の間隔で鋏入れて、これを先程の棒に 巻き付けて二本作ります。花瓶に立てると沙羅双樹の出来上りです。こんなことをして、祭壇の準備をします。

 部落の近所の男衆は手際よく 棺を安置し、供物を並べる等してお通夜式を迎える迄の段取りを整えます。ご近所の女衆は、と見れば全員白い割烹着を付けて野菜を切るあり、米を研ぐあり、 味噌汁の準備をするあり、文字道り隣り近所・親類縁者一丸となって死者を送るために没入していたものです。
 
 扨て通夜式が始まる直前、 高札を小型にした七本塔婆にお題目と菩薩の御名を書き入れ、長さ二メートル、幅十センチ程の板木にお題目と新ぼとけのお戒名を墨書し、木製の骨箱に経文を 書き入れてから通夜のお経に取り掛かります。一時間はタップリ読み続けて終わりますと、尊師をお勤めした師匠がお詣りにかけつけた人びとの方に向きを変え て三十分は掛かりましたでしょう。「通夜説教」でおシャカ様のみ教え、本日の故人の事蹟などをおはなしして、終るとご近所の奥様総動員してのお料理をいた だき、お酒をいただきますが大勢の人達はそのまま一晩中ローソクの灯が消えないようにお線香が絶えないよう、翌日迄夜どおしして故人の冥福を祈ったもので した。

2013年3月9日

やがて出棺の用意も出来て、霊柩車に櫃が納まりました。その時真っ赤な車が拙の前に停まりまして運転席から青年が降りて来て「どうぞ」と助手席のドアを開けてくれました。  この道六十年に近いわたくしですが、若い人好みの真っ赤な車に乗って火葬場に行こう、なんて初めてですが、折角のご好意ですから同乗させて貰いました。

 私の乗った車は霊柩車の後について葬列を組み、利根川の支流の小貝川沿いの市営斎場に三十分程で到着しましたが、席が隣りだったせいもあり快活な運転席 の彼と行程中チョットの休みもなく、葬儀中の読経の印象が話され、それについての質問があって瞬く間に降車した感じでした。
 降り際にその青年は「この近くにアトリエがあって油絵の製作中なので、一旦現場に戻って仕事をして収骨の時間にまた迎えに来ます」と約束して引き返して行きました。

I君の棺は火葬炉に十二時半に納まり、二時半に換骨されて近親縁者によって白い壺に納められました。

儚いことです。

人間一人わずか二時間で骨片になってしまうのです。骨壺の葬列が斎場から出ると先程の青年があの真っ赤な車で迎えに来て給れていました。復路の三十分もまたお互い饒舌に会話を楽しんで葬祭場で別れました。

用意の祭壇に遺骨や位牌や写真を並べて、換骨・初七日忌のお経を唱えました。

内容は観音経と欲令衆と御書とです。観音経と欲令衆は法花経、通常法華宗の一門が読んでいるお経ですが「御書」といえば普通の場合我が宗門では宗祖の日蓮が書き残し文章を読むのです。

然しわたしの場合は違って、蓮如上人の御文を換骨、初七日法要の際は必ずお読みすることにしております。これは同宗門お坊様に話したら眉をしかめられることなのです。

それは何故?と云えば蓮如上人とは浄土真宗のお上人で「念仏専修」で今日の大真宗をお作りになった大先達で、わが宗の祖師日蓮を以って云わしむれば「念仏 は無間地獄に堕ちる」と酷評されておりますから「そんなことは、あってはならない」と昔から誡められていることだからです。

然し、わたくしは敢えて念仏宗の蓮如上人の御文を拝読します。それは法華宗の各派が挙って読んでいる観音経や欲令衆を含む法華経は二千五百年の昔、インド でおシャカ様が説かれたお経である、と云われ続けておりましたが、近年確かなこととして「おシャカ様が説かれたお経ではない」と云うことになりました。

にも拘わず、何故に法花経を読むのか、と云えば曽っておシャカ様が説かれたタイ等に伝わる小乗仏教のおしえを発展させて行くと、必ず大乗仏教の法花経に辿り着くのだからそれならば法花経はおシャカ様がお説きになったお経だ、云える」と学者は講釈します。

わたくしもその通りだ、と思います。蓮如上人の御文について云えば、法華宗の開祖日蓮の御書に同義のご文章が沢山見られます。

同じ様なご文章ならば換骨・初七日忌の法要に一番ふさわしく、その法要に列する人びとに感銘を与えるご文章ならば、敢えて念仏宗の、同門の、等と問題にせずにお読みすれば良いではないか、と云うのがわたくしの信念です。

いつの場合でも換骨・初七日忌の読経が終わって振り向いて列席者の表情を見ると感銘を受けた表情が見てとれるのです。

わたくしが葬儀業者の意見を取り入れず、必ず火葬場から帰ってから初七日忌法要をする理由です。

2013年2月21日

翌る六日は八時半に自坊を発って、十一時開式の葬儀に備えました。
前にも書きましたが、斎場は住居から遠く、しかもウィークデーの月曜日であるに拘わらず、会葬者の数は相当のものでした。
故人の日頃のお付き合いと愛娘お二人の真面目な勤務態度と親密な友達関係によるものだ、と感心させられました。
普通の場合で云うと、故人本人がお勤めを定年退職して十数年も経つと、お通夜はそこそこに焼香客は見えても、告別式は親族のみ、その親類も核家族化が進 み,未亡人と遺児数名で、それが広い貸斎場でそこだけがポツンと目立っていやでも悲しい場所が、更に寂しさが増すことも珍しくありません。

そんな中を葬儀は始まりました。
導師の紹介が葬儀業社から行なわれ、「お導師はI家菩提寺ご住職です。お導師読経の方、宜しくお願いします」がありました。
付言しますと式の前、司会の者に「喪主に相談して、”そうして欲しい”とのご返事があったら『菩提寺住職』で紹介して貰って結構ですから」とあらかじめ指示しておいたのです。
さて紹介された導師のわたくしは入場に際して、僧侶控え室を出てから行道のお経を唱え続けて満場の回葬者の静謐をたすけて祭担の前に至って、一礼して着座し、司会者の導師紹介の言葉を承けて読経を開始しました。

今日のわたくしのいでたちは紫色の法衣の上に七條と云う肩から踵まで緋色に金絞の袈裟を着け、頭には燕尾(えんび)と云う帽子を冠り、左手には象牙の大珠 数を右手には中啓と云う扇子を持ち、どこから見ても大僧正の威容で親友との最後の別れに臨みました。
これは、そもそも住職のわたしを偉く見せよう等の魂胆ではなく、故人のため、更に葬儀を荘厳にするための配慮なのです。

先ず、最初の発音(はっとん)は、I君をお浄土に導いて下さる仏さまをお招きする勧請文を唱え、次に黄泉(よみ)の国へ向うに必要なお経を読み、そして引 導文で「そこに居らっしゃる仏さまに従って魂が良い旅を続けられて、どうか最後には浄土にお生まれ下さい」と語りかけまして、約45分間の告別式を終え、 退場に際しては復た行道のお経を控え室に至る迄、唱え続けました。

回葬の面々は算黙し合掌して導師のわたくしを見送っておられました。
いつもこの際に思うのですが、故人に失礼もなくお蔭さまで導師の重責を全うすることが出来ました、と感謝するのです。
やがて出棺の準備が出来た頃合いを見計らって、お柩の傍にまいりまして、お経を唱えました。
お棺の蓋が開けられましたら、I君が生前もっとも気に入っていたワイシャツに素敵なネクタイが締められ、一張羅の高そうな背広姿の彼がいました。
洒落者のI君が安らかに眠っている姿を見て、死に際しての苦しみもなく臨終のその時まで恵まれた人生だったことをつくづくと思って一輪の花をわたくしも遺骸の側にそえて念じました。
どうぞ、わたくしの最後も斯く肖(あやか)らせて。」と

2013年1月31日

十一月二日に逝ったI君の葬儀は「五日午後六時から通夜式、翌る六日の十一時から告別式」と斎場の都合で決まりました。
あれ、これと散々考えてお付けした、彼に最も芳しい戒名を懐にして寺を出たのが二時半、上野駅三時十分発土浦行きに乗り継いで取手駅を過ぎ、F駅に降りたったのが五時少し前でした。
 
早く着き過ぎては喪家のひと達に気を遣わせるからと思って、駅舎で缶ジュースを飲み、斎場へ向かったが未だ余程早い。
駅から直進すると角に店があったから飛び込むと、これが焼肉屋さんで店主に事情を話して「何か飲み物を」と頼むと「オレンジジュースがあります」との事、 十五分位いかけて一杯のジュースを飲みほしてお代を払って店を出る頃には店主と友達のようになり、「その斎場ならば、突き当りを左折して三軒目を右へ行か れたら」と、ご親切に教えて貰って無事に着きました。
「僧侶控室」の座布団に坐って腕時計をみたら開式まで三十分の余裕がありました。
 
お茶を啜っていましたら奥さんと二人のお嬢さんが挨拶にみえましたのでお戒名の謂われを説明しました。
「八月十三日に遊びに寄った時、お父さんは私にこう云いました。娘二人を前にして"おまえら俺が早く死ねば良いと思っているんだべ"と云ったら二人の娘が 泣いて"そんなこと思ってなんかいないヨ、今のままで良いから長生きしてもらいたい"って言ったくれた"と云って嬉しそうに話していた、それをお戒名にし ました」と申しましたらこもごもにその時のことを思い出して涙を流して喜んでお礼を述べておられました。

前々号の京のみやこの自分探しの旅、前号の遂に自分の居場所を得たよろこび、人生の喜びはこれに尽きるのではないか、と思います。
そして定刻になり、通夜法要が始まりました。
ご自宅はF駅から徒歩三十分ほどもあり、斎場は駅のそばですからご近所の方はほとんどお焼香に来られない、と判断しておられましたが多勢の方が押しかけられました。
 
お経は私独特の口語体の観音経と欲令衆をお読みしました。
観音経では、黄泉の旅で苦難に値ったとき、観音さまの御名を唱えなさい、必ず救いに現れます。との観音さまの誓いのことばが並べられており、欲令衆はお シャカ様は全ての人の親だから苦難のとき、必ず救護します、とのほとけ様の保証です。

このお経を、開いて居て誰でも理解できる様にお読みして約五十分で法要を終わりました。
終わって先刻の控室で弁当をいただいて居る所へ葬儀社の担当者がたずねて来てこう云うのです。
「明日の葬儀の際に一緒に初七日の法要もして下さい」この頃葬儀業者の都合でこんな申し入れをしてくるのがとても多くなりました。
わたくしは必ずお断りしておりますが、このたびも火葬後の換骨法要と初七日忌法要が如何に大切かを業者にお話をして撤回させました。
七時半に斎場を辞して十時少しまえに自坊に戻り着きました。

2013年1月12日

難値院昭居信士のこと
正月早々「縁起でもない」と仰言る方が読者の中にはおいでかも知れませんが、
一応文脈上今回はI君の最後のことに触れなければなりませんのでごめん蒙ります。
実は頭書の漢字を並べ立てたのがI君のお戒名です。旧年の十一月二日早朝奥さんから電話で
「主人昭一が今朝亡くなりました」(申し遅れました、実はI君の名前は『昭一』と云います)と知らされた時、「わかりました。東京在住の同級生には幹事を通じて全員に知らせる様に手配します。
外に何かお手伝いでもすることがあったらご遠慮なく申し付けてください」と云って受話器を置きました。

それから、一時間程して、又電話があって「主人の通夜・葬儀の法要を一切お任せしたい」とのおおせでした。

それに対して私は「だって奥さん、昭一君はI家の長男で、ご実家は漁師の網元で郷里の禅寺の総代さんの筈ですから、お骨を其方に納めるとすれば、その菩提寺さんのご意向とご親類一統のご意見もありますヨ、勿論その上でこの私に、と云うのであれば有難くお受けしますから」とお答えしたのでした。

その日の夕方、三度目のご連絡の際、「実家は下の弟が継いでおりますから、将来は昭一が先祖になって新墓地を構えることに致しました。
実家は言っていただいた通りに禅宗ですが、そちらの日蓮宗で良い、と弟妹みんなが申して居りますので呉ぐれも宜しくお願いします」との申し入れでしたので、ご縁の有難さを身に感じて恐懼して「わかりました」とご返事しました。

お引き受けして先ず考えたのは「お戒名をどうお付けしようか」でした。十代の頃から交友関係があり、彼との想い出をもとにして選学すると数限りなく案は出て来ましたが、生前の彼を写すとなれば芳しくありません。

思案のあげく三年前に肺炎で入院加療後、自宅に戻った際、I君がわたしに話したことでした。
晩年の彼は膝を痛めて苦しんで居ました。松葉杖を使わなければトイレにさえ行けない状態でしたが、そんな彼が娘さんが出社する際には徒歩で30分はかかるJRの駅まで車を運転して送るのを日課にしていました。

ある日、彼は二人の娘さんに云ったそうです。「お前ら、俺が早く死ねば良い、と思ってるべ」と、
そしたら二人とも涙を流して「そんな事なんか思っていないよ、お父さんには今のままで良いからウンと長生きして貰いたいのヨ!」と云ってくれたと云って本当に輝く様に笑って喜こんでいました。

人生には苦労が付き物ですが、年老いて身体が思う様にならなくて家族の厄介者になった、
と感ずる程の苦しみは無いと思います。
その時の娘さん二人の心情がお父さんの余生を輝やかせてくれたのです。

お戒名は、人生の困難に値って、娘さんの言葉を貰って昭(あかる)く過ごすことが出来て、父の居場所を全うすることを得た。と贈り名したのでした。

お電話はこちらから 0120-07-9910